ロシアに武力報復されかねない緊張状況に

日本政府が準備した警護者が皇太子殺害を企てたことで、事件当時神戸港にいたロシア帝国の艦隊が武力報復に出る恐れもあるという緊迫した状況に見舞われました。 事件当時のロシアは世界でも最強クラスの大帝国でしたが日本は近代化の緒についたばかりの弱小国でしたから日本中がパニックとなり、神社や寺院で皇太子平癒の祈祷が行われ、見舞いの電報も1万通を超えたといわれます。 しかし天皇自らが謝意を表明したことがロシア側に評価され、良好だった日露関係は悪化しませんでした。

犯人・津田三蔵

(画像:Unsplash

犯人の津田三蔵は1855年2月15日江戸下谷の藤堂藩の医者津田長庵の次男に生まれ、7、8子歳頃に伊賀上野に移っています。 1870年に陸軍に入り金沢分営に配属されていましたが、1877年の西南戦争で左手に銃創を負っています。1878年に精神を犯され入退院を繰り返していましたが功績が認められ勲章(勲七等)が授与されます。 1882年1月9日陸軍を退役し三重県警巡査となりましたが暴力沙汰で免職になり、同年12月に滋賀県警に採用されてその後功労褒章を2度受賞しています。

大津事件の背景

大津事件では当時強国だったロシア帝国の強硬姿勢に対する不満や生産戦争で死んだはずの西郷隆盛がロシアから生還するとのデマが広まっていたことが背景にあります。大津事件の背景はどのようなものだったのでしょうか。

津田三蔵がロシアの強硬姿勢に不満

津田三蔵は1875年に日本とロシアの間で締結された樺太・千島交換条約は不平等として、ロシアの強硬姿勢に不満を漏らしていました。 シベリア鉄道の建設も日本侵略が目的であり、ロシア皇太子の来日もそのための偵察であると主張しています。 当時この偵察説はマスコミも取り上げるほど広まっていました。津田三蔵は皇太子の随行が車夫にいろいろ指示するのを見て日本の地理を調査していると思い込み、襲撃を決行したようです。