人質を救出しようとするが警備の弱さが露呈

オランダ商館員2人を人質にとったフェートン号には大砲や銃が装備されていました。 それを知った長崎奉行の松平図書頭康英はフェートン号を焼き討ちあるいは抑留するよう湾内警備を担当していた佐賀藩と福岡藩に命じます。さらに大村藩にも派兵を求めました。 しかし各藩が即座に対応することはありませんでした。佐賀藩は警備にあたるはずの兵員数を大幅に減らしており、長崎における警備の弱さが露呈しました。

要求を受け入れ人質を解放してもらいフェートン号は去る

1808年10月5日の朝フェートン号はオランダ商館員1人を解放します。その際に長崎奉行に水・薪・食糧を要求し、応じなければ長崎港内の和船並びに唐船を焼き払うと脅しました。 その要求を聞いた長崎奉行の松平図書頭康英は激高したものの、フェートン号に対抗する武備がなかったことから要求を承諾します。 フェートン号に対し長崎奉行は水と薪を、オランダ商館は豚と牛を送りました。その結果としてもう1人の人質が解放されフェートン号は長崎港を後にします。

フェートン号事件の背景

(画像:Unsplash

フェートン号事件が起こった当時日本が交易を行っていたのはオランダ・清国・朝鮮と限られた国だけです。しかし日本との交易や日本を航海の中継地としたい国は他にもありました。 イギリスもそうした国の一つでしたが、フェートン号事件の背景にあった事情は異なります。ここではフェートン号事件の背景に何があったのかについて詳述します。

イギリスとフランスの対立

フェートン号事件が起こった背景にはイギリスとフランスの対立があります。1799年にオランダはフランスとの戦争に負け、フランスの属国となりました。 当時のオランダ国王であるウィレム5世は逃亡先のイギリスに援助を求めます。これを受けてイギリスはオランダが海外に置いていた植民地の接収を始めます。 そうしたイギリスの動きに対してフランスも対抗し、日に日に両国の対立は深まっていました。