翌日轢断されて死亡しているのが発見される

下山定則氏が失踪した翌日の7月6日0時30分過ぎ、北千住駅から綾瀬駅に向かう下り電車が人身事故を起こしました。事故の報告を受けてから上野保線区を管轄する北千住区長と副区長は現場に向かい、近所の駐在所の巡査も実況見分を始めます。 そして巡査が金歯を発見したことから社会的地位が高いと判断し、西新井署に報告し捜査員が到着します。その結果、轢死体となった被害者が下山定則氏だと判明しました。

下山事件は自殺なのか他殺なのか

下山事件は発生当時から、他殺説と自殺説が入り乱れていました。下山定則氏が死後轢断であると主張したのが、東京大学法医学教室の古畑種基でした。生体轢断のため自殺であると主張したのが、東京都監察医務院の八十島信之氏と慶応義塾大学の中島久平教授です。

亜細亜産業による他殺説

作家の柴田哲孝(しばた てつたか)氏は2005年に「下山事件・最後の証言」というノンフィクションを、2015年には「下山事件・暗殺者たちの夏」という小説を発表しました。これ以後、亜細亜産業による他殺説が有力視されています。 亜細亜産業とは当時あった貿易会社で、旧満州特殊機関の残党が多く集まっていたことで知られています。亜細亜産業はGHQのキャノン機関やCIAとの関わりが深く、運動が活発な共産党の関与を匂わせ弱体化を狙うために下山定則氏を暗殺したと考えられたのです。

自殺説

下山事件の自殺説が根強い理由は、当時の国鉄が置かれていた状況が大きく関係しています。 1949年はドッジ・ラインに基づいてた緊縮財政策を実施することを決めた年で、国鉄に対し10万人近くを人員整理するように勧告していました。 失踪前日の7月4日に3万700人を解雇していた下山定則氏は初老期鬱憂症(しょろうきうつゆうしょう)にかかっていたという情報もあり、発作的に自殺してもおかしくないと考えられたのです。