下山事件は未解決殺人事件!事件の詳細や自殺説・他殺説など解説します!

経済

2019年9月9日

「下山事件」は昭和の時代に起こった国鉄三大事件の一つで、いまなお謎の多い事件です。このため多くの作家がモチーフに取り上げた事件でもあります。今回ビジキャリではこの「下山事件」をとりあげます。事件の経緯とともに、自殺説と他殺説それぞれの根拠も解説しますので、参考にしてください。

下山事件とは国鉄総裁の下山定則が遺体となって発見された事件

「下山事件」は事件発生から70年を経過した現代でも、注目度が高い未解決事件です。第二次世界大戦から復興に向かっていた1949年、当時の国鉄総裁・下山定則氏が轢死体(れきしたい)として発見されたという事件でした。 今回は下山事件の概要と共に、自殺説・他殺説の内容やその他の事件との関係についても紹介します。

下山事件の概要と経緯

下山事件が発覚したのは、1949年7月6日未明です。前日5日に出勤途中で行方不明になっていた下山定則氏が、国鉄常盤線の北千住駅と綾瀬駅の間で轢死体となって発見されました。 ここでは5日に下山氏が行方不明になった時から、6日に轢死体として発見されるまでの経緯を説明します。

下山定則は三越に入った後失踪

下山定則氏は毎日、公用車であるビュイックに乗って通勤していました。1949年7月5日もいつも通り、8時20分に自宅を出発して会社に向かいました。 その日下山氏は運転手に、日本橋の三越に寄るように指示します。しかし開店前だったため行先を国鉄本社側にある千代田銀行(現在の三菱UFJ銀行)に変更し、運転手は下山氏の指示通りのルートを辿って三越に戻りました。 「5分ほど待つように」と運転手に言い残した下山氏は、そのまま失踪しました。

失踪後複数の目撃情報

国鉄内で下山氏の失踪が明らかとなり警察に通報すると、捜査員はその足取りを調べ始めました。 すると三越店内だけでなく、浅草方面に向かう営団地下鉄銀座線の電車内で目撃されていることがわかったのです。さらに5日の13時40分に東武伊勢崎線五反田駅で、改札係と会話したことも明らかになりました。 そして14時から17時過ぎまでは五反田駅近くの末広旅館に滞在し、その後に下山氏に似た男性が東武伊勢崎線沿線に向かっている姿が目撃されていました。

翌日轢断されて死亡しているのが発見される

下山氏が失踪した翌日の7月6日0時30分過ぎ、北千住駅から綾瀬駅に向かう下り電車が人身事故を起こしました。事故の報告を受けてから上野保線区を管轄する北千住区長と副区長は現場に向かい、近所の駐在所の巡査も実況見分を始めます。 そして巡査が金歯を発見したことから社会的地位が高いと判断し、西新井署に報告し捜査員が到着します。その結果、轢死体となった被害者が下山氏だと判明しました。

下山事件は自殺なのか他殺なのか

下山事件は発生当時から、他殺説と自殺説が入り乱れていました。下山氏が死後轢断であると主張したのが、東京大学法医学教室の古畑種基でした。生体轢断のため自殺であると主張したのが、東京都監察医務院の八十島信之氏と慶応義塾大学の中島久平教授です。 ここでは下山事件の他殺説と自殺説の内容について、紹介します。

亜細亜産業による他殺説

作家の柴田哲孝(しばた てつたか)氏は2005年に「下山事件・最後の証言」というノンフィクションを、2015年には「下山事件・暗殺者たちの夏」という小説を発表しました。これ以後、亜細亜産業による他殺説が有力視されています。 亜細亜産業とは当時あった貿易会社で、旧満州特殊機関の残党が多く集まっていたことで知られています。亜細亜産業はGHQのキャノン機関やCIAとの関わりが深く、運動が活発な共産党の関与を匂わせ弱体化を狙うために下山氏を暗殺したと考えられたのです。

自殺説

下山事件の自殺説が根強い理由は、当時の国鉄が置かれていた状況が大きく関係しています。 1949年はドッジ・ラインに基づいてた緊縮財政策を実施することを決めた年で、国鉄に対し10万人近くを人員整理するように勧告していました。 失踪前日の7月4日に3万700人を解雇していた下山氏は初老期鬱憂症(しょろうきうつゆうしょう)にかかっていたという情報もあり、発作的に自殺してもおかしくないと考えられたのです。

下山事件の真相と真犯人

下山事件発生当初は、国鉄労組が人員削減を阻止するために行われたという観点で捜査が進められていました。しかし自殺か他殺かを結論づけることもできず、真相や真犯人に関する公式発表はされていません。 当時の捜査一課は自殺であると発表しようとしましたが、実現することはありませんでした。ここでは捜査のその後について紹介します。

1964年7月に時効となる

1949年12月31日自殺か他殺かを結論付けることなく、下山事件特別捜査本部は解散しました。 その後は警視庁捜査二課が中心となって、捜査を進めていました。しかし1950年になると捜査員の転勤や規模縮小を余儀なくされ、捜査は事実上打ち切られたのです。 そして1964年7月6日、下山事件の殺人事件としての時効が成立しました。この日、事実上の迷宮入りが確定したのです。

下山事件と三鷹事件・松川事件の関係性

国鉄三大事件として語り継がれている「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」は、すべて1949年に国鉄で起こりました。 三鷹事件とは7月15日に中央本線の三鷹駅で無人列車が暴走した脱線事故で、死者6名・負傷者が20名に上っています。松川事件は8月17日に東北本線松川駅-金谷川駅間のレールが故意に外され、脱線事故が起こり3名が死亡しています。 この3つの事件はレッドパージと呼ばれる、共産党員の労働運動弾圧のために行われた謀略であるという説が有力です。

まとめ

下山事件の経緯や自殺説・他殺説などについてお話ししてきましたが、理解していただけましたでしょうか。 三鷹事件は解決しましたが、下川事件は松川事件と共に未解決のままです。そのため、今なお真相解明に取り組む作家が少なくありません。時代背景を理解したうえで様々な作品に触れる人が増え、事件を風化させないことが重要です。


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