治安は悪い

1950年代から西成(あいりん地区)は日雇い労働者が集まるドヤ街として急速に人口が増加し、簡易宿泊施設やアパートが密集していきます。 当時の住民の50%近くの住民は簡易宿泊施設もしくはアパートで生活しており、定職を持つものはそのうち40%程度であったため不就学児童も少なくありませんでした。 また暴力団の拠点も数多くあったことから治安は悪化の一途を辿り、麻薬密売や盗品売買、売春といった違法行為が行われたのです。

西成暴動(釜ヶ崎暴動)

西成(あいりん地区)では1961年~2008年までに24回もの「西成暴動(釜ヶ崎暴動)」が起きていますが、一番最初の暴動は交通事故に遭った被害者に対する警察の対応が発端でした。 ここから40年以上にわたって「西成暴動(釜ヶ崎暴動)」は繰り返され多くの負傷者を出してしまいますが、どういった内容の暴動だったのかを解説します。

最初の1961年の西成暴動(釜ヶ崎暴動)

1961年に西成(あいりん地区)で起こった最初の「西成暴動(釜ヶ崎暴動)」は交通事故で亡くなられた被害者に対する警察の無慈悲な対応が引き起こしたものです。 西成区の路上でタクシーに人が轢かれるといった交通事故が発生し西成警察が急行しますが、既に死亡が確認されたため遺体を放置したまま現場検証を始めました。 これに対して約4,000人の日雇い労働者らが近隣の東田派出書を破壊したほか、西成警察署のパトカーや施設を破壊しようとしたため、6,300人の警官隊が投入され制圧したのです。

2000年代まで起き合計で24回もの暴動が起きた

「西成暴動(釜ヶ崎暴動)」は1960年代に8回、1970年代に12回、それ以降は間隔を開けながら4回の暴動が引き起こされています。 1960年代に起きた「西成暴動(釜ヶ崎暴動)」は日雇い労働者が自然に集まり暴動に発展していきますが、1970年代には新左翼活動家が窮民眠革命論を掲げて意図的に暴動を引き起こしました。 その後に起きた暴動には新左翼活動家は関わっておらず、金銭トラブルなどに端を発して勃発したものであり、これまでとは性質を異にしています。