ニチリョウ社長などを歴任

丸紅飯田時代の「河野洋平」氏はさまざまな業務に就いており、富士スピードウェイの建設にあたっては丸紅飯田が出資した運営会社「日本ナスカー株式会社」の副社長に就任しています。 その後アメリカのスタンフォード大学にも留学しており、同時期に留学していた田中角栄元総理大臣の娘である眞紀子女史とも交流があったそうです。 また帰国後は砂糖や小麦粉など製菓原材料の卸売業務を行う「ニチリョウ」の社長に就任するなど要職を歴任することで、政治家になるための経験を積んでいます。

政界入りを果たす

順風満帆なサラリーマン生活を送っていた「河野洋平」氏でしたが、1965年に父・一郎氏が亡くなると、いよいよ政治家に転身することを余儀なくされます。 父をはじめ親族の多くが政治家であったことから、いずれは「政治家になる」との決意を持っていた河野氏は父の地盤を引き継ぎ、1967年の衆議院議員選挙で初当選を果たしました。 政界では豪傑なイメージの父・一郎氏とは異なり、物腰の柔らかい河野氏は若手のホープとして期待され「自民党のプリンス」と呼ばれるようになるのです。

新自由クラブを結成

若くして政界入りを果たした「河野洋平」氏ですが、すぐに政治家としての才能を発揮し、自民党内左派(親中派)の中堅・若手議員を集めて「政治工学研究所」(政工研)を主宰しました。 政工研には田川誠一氏、西岡武夫氏、山口敏夫氏ら有能な国会議員が多数参加していましたが、彼らはロッキード事件に端を発する自民党の政治倫理の在り方に不満を抱き1976年に自民党を離党します。 河野氏は新保守政党である「新自由クラブ」を結成すると、直後の総選挙では当時の自民党政治に反発する保守層からの支持を得ることに成功するのです。

衆議院議長に就任

新自由クラブは幸先こそ良かったものの、その勢力は次第に失速し1986年には解散してしまいました。 自民党に復党した「河野洋平」氏は、1992年に宮沢喜一内閣で官房長官に就任するなど要職に就きますが、小沢一郎氏らの大量離党によって総選挙で惨敗を喫します。 その後河野氏が自民党総裁となり政権を奪回しますが、内閣総理大臣になることは叶いませんでした。そこで、河野氏の功績に報いるべく2003年に衆議院議長のポストが与えられ1,786日という長きにわたりその職務を全うするのです。