三菱自動車工業の概要

1917年に三菱合資会社から独立した三菱造船は三菱A型自動車を製作しますが、1948年以降は日産やトヨタの乗用車におけるボディ請負生産を始めノウハウを吸収します。 1950年に過度経済力集中排除法が施行され、三菱造船が東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の3社に分割されます。その後東日本重工業がカイザー=フレーザーと技術提携を行い、日本におけるヘンリーJのCKD生産とアジアでの販売権を得ます。翌1951年よりヘンリーJの販売を開始し、1953年にはジープのCKD生産を始めやがて国産化します。 1953年の平和条約締結後、東日本重工業は三菱日本重工に名称を変更。1959年に軽3輪トラック「レオ」を、1962年には自社で開発した初めての自動車である「三菱500」を発売します。 そして1964年に分割された3社が再合併し三菱重工業となり、1970年にクライスラーと合弁事業の契約を結んだことを機に三菱自動車工業として独立しました。

三菱自動車工業の乗用車部門とバス・トラック部門

1970年に三菱自動車工業として独立して以降、乗用車部門とバス・トラック部門の両方で製品開発を行いました。しかし1998年にバス車両の製造を三菱自動車バス製造に移管します。2000年にリコール隠しが発覚し他の地、2003年にバス・トラック部門を三菱ふそうトラック・バスに移管します。 乗用車部門は一貫して三菱自動車工業内にあり続けますが、2005年には日産自動車との包括的な事業提携を締結。日産の傘下企業として再建を目指すことになりました。

リコール隠しにより起きた事故

「三菱リコール隠し事件」により、2002年には2件の死亡事故が発生しました。「横浜母子3人死傷事故」と「山口トラック運転手死亡事故」はみなさんも、一度は見聞きしたことがあることでしょう。 ここでは2つの事件について、概要を説明します。

横浜母子3人死傷事故

「横浜母子3人死傷事故」は、2002年1月10日に神奈川県横浜市で起きました。大型トレーラートラックの左前輪が突然外れ、そのタイヤが下り坂を転がりベビーカーを押して歩行中だった母子3人を直撃。当時4歳と1歳だった兄弟は手足に軽傷を負ったものの無事でしたが、当時29歳だった母親は死亡しました。 事故直後の三菱自動車工業は、「運送会社の整備不良が原因」と主張します。しかしその後の捜査でトレーラーのハブ破損が原因であることがわかり、三菱ふそうトラック・バスが国土交通省にリコールを届け出ます。 作家・池井戸潤氏の「空飛ぶタイヤ」は、この事件がモチーフとされています。