桜田門外の変とは

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当時の幕末政治は将軍の承継と米国との条約勅許問題で揺れていました。第13代徳川家定(いえさだ)が病弱だったため大老に就任した井伊直弼が徳川家茂(いえもち)を将軍に専下し、日米修好通商条約を結びます。 孝明天皇の政治関与と一橋慶喜(よしのぶ)を押す一橋派は井伊直弼と対立したため、安政の大獄という反乱分子を容赦なく処罰する弾圧を受けます。これに不満を持った水戸藩士らが江戸城桜田門外で井伊直弼を襲撃し暗殺を実行します。

井伊直弼が暗殺された事件

大老となり事実上の権力を握った井伊直弼にとって、正当な順位継承を守り将軍に専下した紀州慶福(よしとみ)に対して天皇攘夷と一橋慶喜を押す一橋派は反乱分子でしかありません。 井伊直弼はこのままでは徳川家の権威が失墜してしまうと考え安政の大獄という大弾圧を始めます。 この大弾圧の恨みと実権を握りたい一橋派は井伊直弼の排除を計画します。そして安政7年3月3日(1860年3月24日)、井伊直弼は江戸城に登城し桜田門をくぐったところを水戸藩士らに襲われ暗殺されてしまいます。

水戸浪士によって実行された

水戸藩は幕府に従おうとする保守派と朝廷を仰ぐ急進派に分かれていました。急進派は幕府に付く井伊直弼暗殺を計画し保守派と決別し脱藩します。 水戸藩主の徳川斉彬(なりあき)は幕府に急進派の説得を頼みますが、急進派の水戸藩士はそれをかいくぐり江戸へと上ります。急進派の水戸浪士は、井伊直弼と共に水戸藩に圧力をかけていた安藤信正(のぶまさ)らも襲撃の対象にしていました。 しかし、警備が厳しかったこともあり計画を変更し井伊直弼のみに狙いを定めます。襲われた井伊直弼も武芸は自ら流派を構えるほどの腕前でしたが多勢に無勢、拳銃で腹を撃たれ首をはねられ絶命します。