日本は秘密裏に出光をイランに派遣した

政府に知られては国にも迷惑がかかると考えた出光佐三は、独自の判断と責任で行動します。安全な航海の方法、行政に関する事務手続き、国際世論の動向など十分な対策を練ります。1952年、極秘裏に専務の出光計助をイランに派遣します。 当初イギリスの報復を恐れるイランは、日本の民間企業との取引に乗り気ではありませんでしたが、政府要人との面談や長期にわたる粘り強い交渉の末、契約を取り付けます。

交渉の末1953年に新田辰夫船長のもと日章丸出港

1953年3月23日、日章丸は静かに神戸港を出航します。 イラクの石油を買うと分かれば、イギリス海軍から撃沈される恐れがあります。そのために名目上の行先は、あくまでサウジアラビアです。本当の行先を知っていたのは、船長の新田辰夫をはじめ、ほんの数名だけでした。 インド洋を航海中、サウジアラビアに向かうと信じていた船員たちに、はじめてその行先がイラクのアバダンである事が告げられます。

しかし国際的事件に発展する

サウジアラビアを目指していたはずの日章丸が、イランに到着したニュースはすぐに世界中を駆け巡ります。「列強英国に歯向かう日本企業がある」と各国とも大々的に取り上げ、国際事件へと発展していきます。 一方イランに到着した日章丸には時間がありません。数日で石油を積み込んだタンカーは、すぐに帰路に就きます。 日章丸が無事に日本に帰れるかどうかを各国とも固唾を飲んで見守ります。

日章丸は日本への帰還に成功した

石油を積んだ日章丸の帰路は危険と背中合わせです。一刻も早く帰らなければ拿捕される可能性が高かったからです。もちろん撃沈される恐れもあります。 面目をつぶされたイギリスは日章丸の航行ルートを予想し、イギリス海軍が海上封鎖を試みます。 しかし日章丸は、イギリス海軍の裏をかき、往路とは違うルートを使いまるで海賊のような運航方法で日本を目指します。 そして1953年5月9日、日章丸は無時に川崎港に戻ってきました。