黒幕はだれか?多岐に渡る陰謀説

本能寺の変については、明智光秀を背後で操った黒幕が存在したとする陰謀説があります。陰謀説には黒幕をめぐり多岐にわたる説があり、豊臣秀吉や徳川家康あるいは天皇など様々な人物が黒幕に挙げられています。 中でも織田信長がいれば天下を取れなかったと思われる豊臣秀吉が一番得をしたという理由で豊臣秀吉に大きな疑惑を持たれているようです。

当時の常識では考えられない豊臣秀吉の中国大返し

豊臣秀吉の黒幕説には、本能寺の変からわずか2日後に毛利方と和議をまとめて短時日で毛利攻めから戻ったことへの疑惑があるようです。 毛利方の備中高松城(現在の岡山市)攻めを行っていた豊臣秀吉は本能寺の変を知った翌4日には毛利方と和議をまとめるという早業を見せます。 和議を結んだ秀吉は6日に高松を出発し7日に姫路、13日に山崎に到着してわずか7日で200㎞も移動しました。この当時の常識では考えられない行軍は中国大返しと呼ばれます。

戦に巻き込まれなかった徳川家康

本能寺の変が起きた時、徳川家康は堺見物を終えて織田信長と京都で会うための準備をしていたようです。 織田信長の死を知ると家康は光秀の探索を避けて三河に帰国するため伊賀越えを選択し鈴鹿白子から船に乗ったので、戦に巻き込まれませんでした。 徳川家康に同行していた旧武田家の重臣穴山梅雪は、伊賀越えをせず別な道を選んで落ち武者狩りに殺されたとされています。梅雪殺害を謀ったのは徳川家康との説があり、織田信長亡き後の旧武田領への侵略に穴山梅雪は邪魔だったためといわれています。

明智光秀は生きていた?

明智光秀は山崎の戦で死んでいなかったとする説や伝承があります。比叡山に光秀という俗名の僧の記録が残されていることや、光秀の名で灯篭が寄進されていることが根拠となっています。 また、家康・秀忠・家光の徳川3代の将軍に仕えた南光坊天海は明智光秀だったとか、天海が日光の景勝の地を明智平と名前を付けたという伝承もあります。次でみてみます。