諦観(ていかん)とは

「諦観」は「ていかん」と読み、「諦」と「観」で構成されています。「諦」という文字が用いられているものの「あきらめる」という意味はなく、「全体を見通してことの本質を見きわめること」「悟りあきらめること」を指します。 ここでは「諦観」の由来や意味について、例文なども用いながら説明します。

諦観の由来は仏教用語

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中国から伝わった「諦観」という言葉は、もともとは仏教用語です。 「諦」は漢語として用いられる際には、「真理」や「道理」を意味します。そこに「観」が加わることで、「真理を観る」あるいは「道理を観る」ことを表します。そのため「諦観」は「明らかにする」もしくは「つまびらかにする」という意味で使われていました。 また、仏教用語において「あきらめる」は今の日本で使われている意味とは異なります。仏教用語では、「物事に対する執着をなくして悟りを開き悩みや迷いから解放されること」を指して、「あきらめる」が使われるのです。

諦観の意味①「全体を見通して、ことの本質を見きわめること」

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「諦観」は、「全体を見通して、ことの本質を見きわめること」を意味します。 「諦」はもともと中国では、「あきらかにする」や「まこと」という意味を持つ字でした。そして「観」には「(注意して)みる」「ながめる」という意味がありますので、この2文字でできた「諦観」で「全体を見通して、ことの本質を見きわめること」となります。 「諦観(ていかん)」を「諦める」という意味に取り違えている人が多いようです。「諦」を訓読みする際、「あきら(める)」と読むからですが、これは日本に伝わった際に、元の意味に後から加わった読み方です。

例文①諦観の境地

「諦観の境地」は、より仏教用語に近い意味を持つ言い回しです。 ・義両親と同居するための転居は私にとって苦渋の決断でしたが、家族を取り巻く環境を考えるとそれが最善であると今では諦観の境地です。 「諦観の境地」という言い回しの場合は、「全体を通して物事の本質を見極める」という意味を持ちます。そしてそこには、「見極めたうえで執着しない状態になる」という意味を含みます。「諦観の境地」を言い換えるとしたら、「往生際がよい」「未練がない」「潔い」「こだわりのない」などが適切といえます。