イラン革命の原因やその後は?イラン革命防衛隊の詳細まで解説!

経済

2019年9月24日

「イラン革命」という言葉を聞いたことがありますか。中東のニュースに関連して耳にすることがあるかもしれませんが、内容まではわからないという人も多いかと思います。本記事ではイラン革命の原因やその後まで、全貌について詳しく説明します。ぜひ、参考にしてください。

1分でわかるイラン革命

「イラン革命」とはイランの皇帝であるパフラヴィー国王が支配していた国をイスラム共和制に変えたことです。「イラン革命」はイスラムの民法・刑法の法律と財政、経済、行政、文化などの国作りを目指した革命であったことから「イスラム革命」と呼びます。 また、「イラン革命」は権力のない民衆が起こした革命から市民革命とも言えます。 さらに、アメリカ・ソ連の大国が関与しなかった革命でもあります。「イラン革命」によりイランの伝統的な「イスラム教」の教えの元で統治体制が生まれました。

イラン革命の原因や情勢

イランを支配していたイスラム王朝が、大国から弾圧を受けて弱体化したイランをクーデターで支配したのがパフラヴィー国王です。パフラヴィー国王は国の発展のために農地改革や森林の国有化、労働者の処遇改善など進めて他の国に負けない国作りを目指します。 しかし、強引なやり方に民衆が反発しました。その反発を弾圧したことにより民衆が怒り、パフラヴィー国王の独裁政治を辞めさす狙いから革命を起こします。

パフラヴィー朝による独裁政治が行われていた

イラン革命の起こる前はイランの最後の王朝と言われている パフラヴィー朝による独裁政治が行われていました。パフラヴィー朝はイランをヨーロッパ的な政治の仕組みに進めていたことと、王朝による政治に理解が得られず革命の対象になりました。 そのパフラヴィー朝を作り上げたのがレザー・ハーンです。レザー・ハーンは1919年8月9日に調印されたイギリス・イラン条約の策略に貢献した人物です。

モハンマド・レザー・シャーによる白色革命

パフラヴィー朝最後皇帝であるモハンマド・レザー・シャーはイランをイギリス・フランス・オランダのような近代的な民主政治を目指した政策をしました。 これが「白色革命」です。「白色革命」を英吾で表現すると「White Revolution」になり、「White」とは文字の通り白色で「Revolution」は革命を意味します。 白色の革命とはフランスでは白が国王や皇帝を象徴する色であったことから、ヨーロッパ化を目指した革命を「白色革命」と用いられました。

インフレや経済格差が生じる

白色革命を推し進めたモハンマド・レザー国王は、農地改革、工業化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上などヨーロッパ化を推進していきます。 そこで生まれたのがインフレや経済格差です。近代化の政策が先行していく中で、その政策を行う設備などの準備が遅れて対応できない事態が起こりました。 そのことから、民衆は職につくことが出来ない状態となり、政策の改革の恩恵を受ける人受けられない人が生まれ、貧困の格差が生まれます。

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