東大紛争の原因とは?東大安田講堂事件も一緒に全貌を解説します!

経済

2019年10月10日

かつて日本でも大学生ら若者が本気で社会を変えようと立ち上がったことがありました。「東大紛争」はその象徴的事件でした。機動隊が突入し多くの若者が傷つきました。今回ビズキャリオンラインではこの「東大紛争」をとりあげます。紛争が起きた要因や終息するまでの経緯を解説します。

1分でわかる東大紛争

東大紛争とは

  • 東京大学医学部における紛争事件
  • 医学部学生らが東大安田講堂を占拠
  • 警察機動隊が制圧

「東大紛争」とは、東京大学において1968年~1969年の間に起きた学生と当局側の紛争事件であり、「東大安田講堂事件」を含め767人が逮捕され616人が起訴されています。 紛争の発端は医学部学生・研修医らが研修医の待遇改善を求めたことでしたが、大学側が強硬な姿勢を崩さなかったことから、安田講堂を占拠する事態に陥り警察機動隊がそれを制圧しました。

東大紛争の概要

「東大紛争」は1968年に勃発した、東京大学医学部学生を中心に結成された東大闘争全学共闘会議(東大全教闘)と大学側の紛争事件であり1969年に収束します。 最大のヤマ場となった「東大安田講堂事件」では機動隊が制圧に乗り出し、逮捕者や多数の負傷者を出してしまいますが、どうしてこのような事態が引き起こされたのかを解説します。

1968年1969年に東京大学で起きた紛争

「東大紛争」は1968年~1969年にかけて東京大学で勃発した学生と当局側における紛争事件であり、1969年に機動隊が出動して学生を制圧した「東大安田講堂事件」を契機に終息します。 1960年後期、全国の大学では古い体質を改革すべく学生を中心とした紛争が各地で勃発しており、日本大学におけるヤミ給与事件はその代表的なものでした。 また、全国の大学医学部ではインターン制度廃止や研修医の待遇改善運動が行われており、東京大学はその中心的拠点校としての役割を果たしていたのです。

大学運営や医学部などについて争われた

東京大学医学部では登録医制度の導入や研修内容について大学側と医学部学生らが激しく対立しており、1968年1月には無期限ストライキに突入していました。 さらに、学生側が医局員を軟禁して交渉にあたった「春美事件」では、大学側に処分の誤認があったにも関わらず撤回しなかったため対立は激化します。 7月には安田講堂が占拠され、新左翼セクトが加わり結成された東大全教闘から「7項目要求」が提出されましたが、到底受け入れられるものではありませんでした。

警察の機動隊も出動する事態に

「東大紛争」の舞台となる安田講堂は1968年3月、6月、7月〜1月の3回にわたり学生側に占拠されますが、そのうち機動隊が出動したのは2回です。 1度目は1968年6月、大河内一男東大総長が状況を打開するため機動隊に出動を要請しますが、さらなる反発を生み出し7月には安田講堂はバリケード封鎖されます。 2度目は1969年1月、東大全共闘との交渉が不可能と判断した大学側が機動隊に出動要請し封鎖解除に成功した「東大安田講堂事件」です。

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