狭山事件は女子高生が殺害された事件!冤罪や不審死やトトロとの関係に迫ります!

経済

2019年9月8日

昭和の時代に起こった未だに謎が残る事件が幾つかありますが、「狭山事件」もその一つです。今日でも冤罪事件として再審査請求が続いているようです。今回ビジキャリではこの「狭山事件」を取り上げます。事件の経緯だけでなく、真犯人と思われる人物や関係者の不審死にも迫ります。

狭山事件は女子高生の殺人事件

昭和に起こった未解決の冤罪事件として有名なのが「狭山事件」です。被害者は高校1年の女子高生で、1963年5月に埼玉県で発生した強盗強姦殺人事件として扱われています。 ここでは「狭山事件」がどんな事件だったかについて、経緯も含めて説明します。

狭山事件の概要

狭山事件は1963年5月1日に発生し、もともとは誘拐事件でした。被害者である中田善枝さんの帰りが遅いことを心配し探していた兄が、自宅に脅迫状が届いていることに気付き警察に通報します。 捜査員が張り込んでいる中で身代金の受け渡しが行われますが犯人は逃走、翌日に善枝さんは無残な姿で発見されました。ここでは、事件の概要について詳述します。

農家の女子高生の元に脅迫状が届く

誘拐事件発生当日は、被害者である中田善枝さんの誕生日でした。激しい雨が降ったその日、善枝さんは夕方になっても帰宅しませんでした。 心配した善枝さんの兄である長男が学校まで迎えに行き、用務員に下校したことを確認します。その後いつも利用している入曽駅にも足を運びましたが、善枝さんはどこにもいませんでした。 そこから郵便局など立ち寄りそうなところを回り、諦めて自宅に戻ります。そして自宅のガラス戸に脅迫状が挟まれていることに気づいたのです。

犯人との交渉、確保に失敗する

脅迫状は当て字だらけでしたが、身代金として20万円を要求していました。長男と父親は封筒には善枝さんの身分証明書が同封されていたこともあり、駐在所に脅迫状を届けました。その後巡査に促され、共に狭山署に向かいます。 誘拐事件と判断した狭山署は捜査本部を開設し、5月3日に自宅と身代金の受け渡し場所として指定された「さのヤ」という酒屋で張り込みを始めます。二女が身代金を持参し犯人と接触しますが、捜査員は取り逃がしてしまいました。

後日、女子高生が遺体となって発見される

犯人が逃走した後、狭山署は公開捜査に踏み切ります。そして5月3日の午前3時からは、警察犬2頭による追跡も行われました。 しかし翌日である5月4日、善江田さんは狭山市内で遺体となって発見されます。農道に埋められていた遺体を掘り起こすと手足は紐や縄で縛られており、膝まで下着が下ろされていました。 司法解剖の結果、死因は首を絞められたことによる絞殺でした。そして善枝さんが強姦の末に殺されたことも、明らかになりました。

狭山事件の犯人逮捕と捜査

身代金の受け渡し場所に捜査員40名を配置し、二女と犯人が会話している様子を見守っていたにも関わらず犯人確保には至りませんでした。そのため狭山署は特別捜査本部に165名を投入し、捜査にあたったものの難航します。 そしてマスコミ・警察・地域住民は、事件現場近くにあった被差別部落に目を向けます。ここでは、被差別部落出身者を逮捕するまでの経緯を詳述します。

警察は犯人を逃したことで世間からバッシングを浴びていた

狭山事件の2カ月前「吉展ちゃん誘拐事件」が起こっていました。その事件でも犯人を取り逃がしていた警察は、世間から激しいバッシングを受けます。遺体発見から4日後に当時の警察庁長官が引責辞任するほど、激しいものでした。 5月11日に遺体が発見された場所から約130mの場所で、スコップが発見されました。そのスコップは、被差別部落にある石田養豚場の所有物でした。そのため捜査員は、養豚場のスタッフ27名の調書をとります。時を同じくして、被差別部落の住民120名の筆跡もとっています。

石川雄一が犯人として疑われる

司法解剖により犯人の体液が採取されており、血液型がB型であることがわかっていました。捜査対象を養豚場関係者に絞り込んだ警察は、捜査線上に浮かんだ人物の中から血液型がB型である者を調べました。その中に被差別部落出身の石川一雄容疑者がいたのです。 石川容疑者には、過去に石田養豚場に勤務した経験がありました。そして被害者である善枝さんとは、養豚場勤務時代から顔見知りでした。捜査員は石川容疑者を、犯人として疑い始めました。

裁判の判決で死刑が言い渡される

5月23日、石川一雄は捜査員によって逮捕されました。容疑は暴行・窃盗・恐喝です。これは別件逮捕でした。6月13日に起訴されたものの、同17日は弁護士の申請により保釈されます。しかしその直後に、石川容疑者は再逮捕されました。その容疑は強盗・強姦・殺人・死体遺棄だったのです。 逮捕直後は犯行を否認していた石川容疑者ですが、やがて自白に転じます。7月9日に起訴されましたが、第一審では犯行を認めています。そして翌1964年3月11日に死刑判決が言い渡されました。

狭山事件では部落差別による冤罪が疑われた

日本共産党系の国民救援会は第一審で係争しているころから、被差別部落を対象とした差別報道や不当捜査を糾弾していました。しかし、表立って冤罪を疑うようになったのは、石川被告が控訴し無罪を主張し始めたころとされています。 ここでは部落解放同盟という支援団体の救援活動や、控訴審後の判決について詳述します。

部落解放同盟による救援活動が行われた

支援活動の中心を担ったのが、部落解放同盟です。1964年9月10日から始まった控訴審で石川被告が犯行を否認したことで冤罪を確信し、全面的な支援を開始したといわれています。 現地調査を1968年10月に行ったことで、狭山事件は差別裁判であると声高に訴えはじめました。その後「狭山事件の真相」という冊子の発行や、狭山差別裁判反対を訴え日本全国を行進するなど様々な救援活動を展開しました。

東京高裁は死刑を破棄し無期懲役を言いわたす

控訴審で石川被告は取り調べが執拗で自白を強要されたと主張し、全面否認に転じます。自白に至る過程で「犯行を認めれば10年で刑務所から出られるようにする」という、虚偽の司法取引が持ちかけられたことが自白の理由だったと説明したのです。 冤罪事件として救援活動も盛んに行われていたことも関係したのか、1974年10月に東京高裁は第一審の死刑判決を破棄します。そして石川被告に対し、無期懲役を言い渡しました。

狭山事件の真犯人は諸説あり

控訴審判決の後、弁護団は上告しますが1977年8月に棄却されました。その結果、石川被告の無期懲役が確定したのです。しかし現在に至るまで、再審請求は続いています。 さらに事件発生後に関係者が次々と不審死していることから、真犯人は別にいるという説も流れています。ここでは今なお噂される、狭山事件の真犯人説を詳述します。

真犯人は長男である説

真犯人として名前が上がるのが被害者善枝さんの兄、中田家の長男です。実は中田家は資産家で、それを独り占めするための犯行ではないかと疑われたのです。 長男が隣に住む親戚に駐在所に行くために留守にすると告げにいった際、物置に善枝さんの自転車が立てかけてあるのを父親が発見しています。そのため父親は拉致を疑い、弁護士も犯人が身内にいるという意味の発言をしたようです。 また長男を除く兄弟が他家に出るか亡くなったことも、この説を後押ししました。

真犯人は奥富玄二である説

真犯人として名前が上がる人に、奥富玄二がいます。奥富は中田家の元使用人で、奥富は中田家の元使用人で、当然善枝さんとは面識がありました。 事件当日に善枝さんと待ち合わせをしていたことから、重要参考人として取り調べを受けました。筆跡が犯人と似ているといわれていましたが、鑑定結果はシロだったようです。 その後、自分の結婚式前日に自殺を遂げています。血液型がB型だったこともあり、真犯人説が根強く残っているようです。

狭山事件の事件関係者の不審死

関係者が次々と不審死していたことも、狭山事件の謎を深くしています。事件が発生した1963年から1977年までの14年間に、6名もの事件関係者が変死しています。その死因も自殺から暴行死まで様々です。 ここでは不審死した事件関係者の中でも、謎が残る自殺者について詳述します。

被害者の女子高生の姉の自殺

1964年7月14日に身代金を運んだ姉である、二女の登美恵さんが農薬自殺しました。医師がきた時には登美恵さんは布団に寝かされており、死後硬直が始まっていたといいます。 石川被告が第一審で死刑判決を受けたことに大きなショックを受けていたとされ、ずっと書き綴っていた日記を中断したほどでした。その後は精神が不安定となり、病院に通っていたそうです。 残された遺書について長兄は「常識では考えられないことが書かれていた」と発言しますが、内容は公表されませんでした。

奥富玄二の自殺

真犯人説がある奥富玄二も自殺しています。5月7日に結婚式を控えていたにも関わらず、善枝さんの葬儀が行われた前日の6日に亡くなりました。その方法も農薬を飲んだうえで空井戸に飛び込むという、用意周到なものでした。 残された遺書には、「病気に負けた」と書いてあったそうです。善枝さんの誘拐事件発生後からノイローゼ状態だったと周囲の人は話していましたが、医師の診断によるものではなく真偽はわかりません。

被害者の女子高生の兄の自殺

被害者である善枝さんの2番目の兄である、中田家の二男・嘉代治が1977年10月4日に自殺しました。その理由は、自身が経営していた中華料理店の経営不振とされています。 しかし中田家は資産家であり、嘉代治は不動産も所有していました。そのため当時も「自殺する理由はないはず」と注目を集めたようです。そのため、不審死として記憶に残ることとなりました。

狭山事件とトトロの関係性

ジブリ作品の中でも幼児に絶大な人気を誇る「となりのトトロ」のモチーフが、狭山事件であるという噂が流れました。 この背景には主人公の姉妹2人の名前「サツキ」と「メイ」が事件が発生した5月に由来していたこと、荷解きのシーンで狭山茶の茶箱が描かれていたことがあるようです。 しかしスタジオジブリは、この噂を完全否定しています。

狭山事件を題材にした映画作品が製作される

狭山事件は、いくつかの映画作品の題材になりました。1973年に部落解放同盟が製作した「狭山の黒い雨」を皮切りに、何作もの映画が製作されます。 最も直近のものは2013年に上映された、「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」というドキュメンタリー映画です。70歳を超えた石川氏の生活を追った作品でした。

まとめ

昭和の冤罪事件にも関わらず、今だ再審請求が行われている「狭山事件」について詳述してきましたが、理解できましたか。 その後の捜査や供述により冤罪を裏付ける事実が明らかになったにも関わらず、現在も石川一雄氏に貼られた「殺人犯」というレッテルは変わることがありません。こうした冤罪事件が今後は起こらないように、私たちも真実を見極める目を持ちたいところです。


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