文部省・鳩山一郎が瀧川教授を休職処分に

1933年2月の帝国議会におけるいわゆる赤化教授問題について質問された当時の鳩山一郎文部大臣は、しかるべき処置を行う旨の答弁をしています。この時点で国(文部省)は既に瀧川幸辰教授の処分を決定していたものと考えられます。 文部省から京大に対しては内々に瀧川幸辰教授の処分が打診されていたようですが、正式に京大に処分の要請が出されたのは1933年4月になってからでした。京大これに抵抗し鳩山一郎文部大臣に善処を求め交渉しますが、国(文部省)が当初の決定を覆すことはなく、1933年5月正式に閣議に付され瀧川幸辰教授の休職が発令されました。

同大学の全教官や学生らが抗議

京大法学部の教授達は大学の自治が犯されたと反発し、教授一同が辞表を提出しました。彼らは同時に学生大会にも出席して辞表を提出した旨を告げました。これを受けて法学部では教授以外の助教授、講師、助手らも一斉に大学に辞表を提出するに至り、学生達も抗議の声をあげました。 学生達の抗議活動は京大の法学部以外にも進展し、やがて東大などの他大学にも波及していきましたが、京大における法学部以外の教官たちがこれに呼応することはありませんでした。

思想統制下の情勢

瀧川幸辰教授は当時の治安維持法を痛烈に批判していました。治安維持法は何度か改訂が加えられ、国家のために個人の基本的人権が大きく制限される運用がなされるようになっていました。 瀧川幸辰教授の刑法論は罪刑法定主義に基づくもので、罪人の人権をも認めるべきとしていましたので、到底当時の治安維持法を運用する当局の意向に沿うものではありませんでした。瀧川幸辰教授は治安維持法を極めて不合理な法律と一括していました。